丹波橋付近の軌道変遷

Transition in Railroad Tracks around Tanbabashi Station

   このページでは丹波橋駅付近の軌道変遷を地形図を用いて比較する。相互直通の廃止は,奈良電の大株主であった近鉄・京阪の株式争奪戦(1962年頃)に京阪が敗れた結果とも言えるが,両社とも急行通過駅であった丹波橋(堀内)が特急停車駅となっているのは,この相互直通の遺産である。桃山御陵前~澱川橋梁間の線形の悪さや,宇治線との関係を考えると,抜本的に線路改良を行って伏見桃山(桃山御陵前)を「伏見副都心」の中心駅として再整備するのが効率的な印象を受ける。
   近鉄の丹波橋乗入れ当時の写真については,「関西の鉄道」44号(2003)などを参照されたい。なお丹波橋~桃山間の旧線路敷は区画整理が行われ,住宅地化しているため痕跡を留めない。

陸軍陸地測量部1:20,000仮製地形図
明治23年測量
明治25年整版
明治30年修正
陸軍陸地測量部1:25,000地形図「京都東南部」
大正11年測図
大正14.10.30発行
陸軍陸地測量部1:25,000地形図「京都東南部」
大正11年測図
昭和2年修正測図
昭和6年部分修正(昭和7.10.30発行)
奈良鉄道は1895(明治28)年に開通したが,1910(明治43)年開通の京阪電鉄はまだ現れていない。この時点では東海道線は稲荷から現在の名神高速道路を山科に向かっていた。丹波橋通の前後は当初から掘割であったようだが,上板橋通では平面交差していた。 1921(大正10)年8月に東山・逢坂山トンネル経由の短絡線が開通し,東海道線が稲荷を通過しなくなると,1907(明治40)年に国有化されていた奈良線のルートを,稲荷~桃山間の新線経由とし,旧奈良線ルートは貨物線となる。京阪線と旧奈良線は,当初から丹波橋北方で立体交差していた。 奈良電は当初小倉から京阪宇治経由で中書島に至るルートで計画されたが,別途伏見桃山へ北上して京阪線に乗入れる路線を追加した。しかし乗入れ本数に制限を受けるので,旧奈良線ルートの払い下げを受けて,自前で京都延長線を建設することになった。京都延長線は桃山御陵前以南に遅れること12日で,1928(昭和3)年11月に全線開通するが,この時点では奈良電の丹波橋は堀内と呼ばれた。
丹波橋駅配線図(1965年頃) 国土地理院1:25,000地形図「京都東南部」
大正11年測量
昭和36年修正
昭和39年資料修正(昭和40.4.30発行)
国土地理院1:25,000地形図「京都東南部」
地図閲覧サービス(2005年時点)
終戦直後の1945(昭和20)年12月に,桃山御陵前~丹波橋間の連絡線を使用して営業列車は全て京阪丹波橋駅に発着する形態となる。旧堀内駅は貨物駅となり,それより北側の軌道は撤去されて,架線柱のトラスだけが草むらに佇立する状態となった。57年には奈良電の三条,京阪の京都への乗入れも開始されたが,奈良電の上り列車は京阪本線を横断するため線路容量的に問題があった。 乗入れ末期の地形図。京阪は軌道,近鉄は鉄道であるため記号が異なるが,輸送力的には京阪が圧倒的であった。線路容量も限界に近かったため,1966年に堀内経由のルートを復活し特急・急行列車は堀内経由で運転されるようになる。さらに翌年には相互直通列車だけが丹波橋を経由し,近鉄線内列車は全て堀内経由となる。当時の丹波橋は共同駅であり,現近鉄ホームは5・6番線と呼ばれた。 双方毎時1本の相互乗入れは,特に京阪側にメリットが少なかったことは確かで,翌年に控えた近鉄の昇圧を理由に,1968年12月で相互乗入れは廃止され,桃山御陵前~丹波橋間の連絡線は撤去された。桃山御陵前方は暫く工事車両の留置線として使われたが,丹波橋方はミニ開発で住宅地化している。丹波橋北方の自転車置き場が旧連絡線の線形を今日に留める。

京阪・近鉄直通運転末期の三条駅発(平日)時刻表。奈良行は1日11本で,京阪線内は全列車急行運転であった。この時刻表の僅か1ヶ月後に直通運転は廃止されたが,この時刻表から40年を経て,京阪・近鉄とも優等列車の停車駅は大幅に増加し,特に準急は京都口は各停扱いとなった。当時の京都口の車庫は深草だけであり,収容は5両編成が限界であった。中書島スイッチバックの宇治行は近年まで運転されていたが,この当時はラッシュ時の京阪線内急行運転はまだ登場していなかった。